憲法義解・同英訳書画像公開

1. 大日本帝国憲法・皇室典範について

 大日本帝国憲法は、明治22年(1889年)に公布された、日本最初の近代的な成文憲法典です。翌明治23年(1890年)、第1回帝国議会の開会に合わせて施行され、昭和22年(1947年)、日本国憲法(昭和21年)の施行に伴って、全面改正されました(*1)。
 現行の日本国憲法と区別するため、一般に「明治憲法」「旧憲法」と呼ばれます。
 明治憲法は、伊藤博文が、井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎とともに起草し、枢密院の審議を経て、明治天皇によって制定された欽定憲法です(*2)(*3)。

*1 公布:明治22年(1889年)2月11日、施行:明治23年(1890年)11月29日(上諭第4段)、全面改正:昭和22年
   (1947年)5月3日(昭和21年11月3日日本国憲法)。
   なお、明治憲法とともに、同日の官報で、議院法(明治22年法律第2号)、衆議院議員選挙法(同法律第3号)、
   会計法(同法律第4号)、貴族院令(同勅令第11号)が公布されました。
*2 明治憲法起草の原案は、井上毅が、政府の法律顧問ロエスラー(K. Roesler)、モッセ(A. Mosse)の助言を得て
   執筆したとされています。
*3 明治憲法の成立過程については、稲田正次『明治憲法成立史 上巻・下巻』(有斐閣、1960・1962年)、
   清水伸『明治憲法制定史 (上)(中)(下)』(明治百年史叢書165-167巻、原書房、1971・1974・1973年。
   本書上巻は同『独墺に於ける伊藤博文の憲法取調と日本憲法』(岩波書店、1939年)の、下巻は同『帝国憲法制定会議』
   (岩波書店、1940年)の改訂版)等があり、史料に基づく詳細な研究がなされています。

 皇室典範は、明治22年に制定された、皇位継承など皇室に関する事項を規定していた法典です。日本国憲法の施行に伴って、現行の皇室典範(昭和22年法律第3号)が制定され、その施行に合わせて、昭和22年に廃止されました(*4)。
 現行の皇室典範と区別するため、一般に「旧皇室典範」と呼ばれます(*5)。

*4 制定:明治22年(1889年)2月11日、廃止:昭和22年(1947年)5月3日(昭和22年5月1日皇室典範
   〔皇室典範及皇室典範増補廃止〕)
*5 旧皇室典範は、明治憲法と並ぶ最高法典とされていました。内閣大臣の副書はなく、官報への掲載もされていません。
   憲法、法律、政令……といった法令の形式上も「皇室典範」という独自の形式のものとされており、その改正は、
   明治憲法で「帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」と規定されていました(74条)。
   その後、形式はそのままですが、公式令(明治40年(1907年)勅令第6号)で官報への掲載が定められ(4・12条)、
   明治40年と大正7年(1918年)の皇室典範増補は、官報で公布されました。
   日本国憲法の施行に伴って新たに制定された現行の皇室典範は、法律として公布されています。

2. 憲法義解・同書英訳書籍について

(1)『帝国憲法皇室典範義解』
 伊藤博文『帝国憲法皇室典範義解』(出版: 東京 国家学会、1889年、発行: 哲学書院)は、明治憲法と旧皇室典範の逐条解説書です(*6)(*7)。
 大日本帝国憲法義解と皇室典範義解から成る2部構成の書籍で、1889年の初版には、はっきりした書名がありませんが、後の増補版発行にあたって、奥付と表紙の背に「憲法義解」と表示されるようになり、これがその後の書名と考えられています(*8)。
 枢密院での明治憲法審議にあたっては、「憲法説明書」(「憲法説明」「憲法註解」)と呼ばれる逐条解説書が、顧問官の閲覧のために提出されました(*9)。
 大日本帝国憲法義解は、それをもとに井上毅が作成した原案(「義解稿本」)について、伊藤博文と、他の明治憲法起草関係者(井上毅、伊東巳代治。療養中だった金子堅太郎は不参加)に、学者(穂積陳重・富井政章・末岡精一)等を加えた参加者で共同審査が行われ、修正の上、確定したものです。
 皇室典範義解についても、同様の作業が行われたものと考えられています。
 憲法義解については、一般に公開するかどうか、公開する場合はどのような公開方法をとるか(官報に掲載するか、個人の著書とするかなど)、議論がありましたが、結局、伊藤博文の著書とすることになり、伊藤博文が版権を国家学会に寄贈したため、国家学会蔵版として刊行されました。
 伊藤博文の著作として刊行されたものですが、本書は、公的な逐条解説書としての意味合いを持つものと考えられていて、憲法研究の基本図書の一つとなっており、研究者以外の方々にもよく参照される文献です(*10)。

*6 刊行当初は、哲学書院・博聞社・金港堂・丸善商社書店の4社から発行され、奥付にも4社が発行人として記載されて
   いました(後に丸善株式会社1社の発行となります)。
*7 本書の解題として、宮沢俊義「憲法義解解題」(伊藤博文〔宮沢俊義校註〕『憲法義解』〔岩波文庫、岩波書店、
   1940年〕179頁)があります。
   また、本書の成立過程についての研究として、
   宮沢俊義・林茂「憲法義解縁起 (一)(二・完)」(法学協会雑誌第58巻8号1167頁、9号〔以上、1940年〕1326頁)、
   鈴木安蔵「『大日本帝国憲法義解』成立の経緯 (一)(二・完)」(国家学会雑誌54巻8号1038頁、11号(以上、1940年)
   1441頁)、
   稲田正次・前掲書下巻859頁等があり、本稿の記述も、主にこれらの文献によっています。
*8 一般に「憲法義解」という場合も、本書全体を指す場合が多いと思われます。
*9 「憲法説明書」については、清水伸・前掲下巻507頁以下参照。
*10 後に、憲法義解を口語体に翻訳し、索引・難字句釈義を加えた、伊藤博文原著『新訳 憲法義解』(日本国学振興会、
   1938年)も出版されました。
   
   

(2) ”Commentaries on the Constitution of the Empire of Japan”
 ”Commentaries on the Constitution of the Empire of Japan/by Count Hirobumi Ito; translated by Miyoji Ito”(Tokyo:Igirisu-Horitsu Gakko, 1889)は、前掲の大日本帝国憲法義解を伊東巳代治が英訳したもので、Appendixとして、告文、憲法発布勅語、皇室典範、貴族院令、議院法、衆議院議員選挙法、会計法の英訳が収録されています。
 版権は、英吉利法律学校に寄贈され、英吉利法律学校が版権所有者兼発行者となりました。
 同書は、起草者の一人が翻訳したこともあって、憲法義解を理解するために参照されており、研究上も非常に重要な文献と考えられています。
 伊藤博文は、帝国議会の開設に備えて欧米の議会視察に向かう金子堅太郎に、この英訳を持たせ、金子は、訪問先の著名な政治家や学者にそれを寄贈して、明治憲法についての意見を聴取しました(*11)。

*11 その報告が、『欧米議院制度取調巡回記』(原本ではありませんが、宮内庁書陵部、国立国会図書館、京都大学附属
   図書館等に所蔵があります)で、金子堅太郎『憲法制定と欧米人の評論』(日本青年館、1937年)に、その内容が
   まとめられています。
   なお、『欧米議院制度取調巡回記』の翻刻として、金子堅太郎『欧米議院制度取調巡回記』(憲政資料シリーズ
   尚友ブックレット第10号。尚友倶楽部、1998年。非売品)、金子堅太郎〔大淵和憲校注〕『欧米議院制度取調巡回記』
   (日本憲法史叢書、信山社、2001年)などがあります。
   また、『憲法制定と欧米人の評判』については、日本青年館と金子伯爵功績顕彰会が1938年に振り仮名をふった
   非売品を発行しています。

3. 画像の公開について

 明治期の法典編纂事業は、条約改正交渉と密接に結びついており、主要法典の編纂にあわせて、外国語への翻訳が行われました。
 法情報研究センター(JaLII)では、さまざまな時期の法令データとその翻訳を収集、データ化し、分析することを通じて、法令翻訳辞書の開発・改良の研究をしており、今回、憲法義解とその英訳書をデータ化することにしました。
 憲法義解とその英訳書は、明治憲法の研究に不可欠な資料であり、翻訳辞書の研究だけでなく、憲法や明治思想の研究者にとって非常に有用なものであることから、作成した画像データを見ていただけるようにしています。

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4. 検索結果のご利用について

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5. その他

 本件画像データ及び画像検索・閲覧システムの作成には、
  特別経費
  「日本法令の国際発信を支える法学・情報科学融合研究の推進」(平成22年-27年度)
に基づく補助金の一部を使用しました。

2012年3月30日

名古屋大学大学院法学研究科
附属法情報研究センター(JaLII)

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